ロールモデルのない人生
両親がいるか。それとも片親か。親が再婚したか。連れ子がいるステップファミリーか。
さまざまな家族モデルがある。
施設にいたとき、ステップファミリーが抱える悩みを聞いたが、聞いただけでもゾッとするようなきょうだい間の差別がみてとれた。
私にとって身近な、つまりネットのみでの人間関係は、主に『親が重たい』──親との関係性での悩みが共通項目だ。
学生になる。労働する。それらによって親との距離が発生する人もいる。
労働の対価が低く、あるいは基礎疾患を抱えているため、実家暮らしを余儀なくされる人もいる。
こういうケースも多い。よく見かける。
それでもこの世には、やはり親がいるのが大多数だ。
では私は?
私には親がいない。きょうだいもいない。
生命体として存在しているが、関係性は絶たれている。彼らに了承を得ず、強制的に離れた。
私が断絶させた。公的な手続きをとり、彼らを加害者にし、私は被害者ヅラして暮らしている。
自虐的な言い方だが、三ヶ月たってもこの意識が抜けない。
親きょうだいが死別していたら、また違ったかもしれない。遺族、という肩書のある人なら見かける。
しかし、私のような人間はみかけない。
知っているのは一人だけ。私が逃げる場所を教えてくれた人だけ。
ひとことでいうと孤独だ。
会って話せる人が誰もいない。親きょうだいが知ってる人とは会えない。居場所がバレるから。
これから会って話せる人を増やすのも、やはり危険が高くなる。
居場所を特定されるかもしれない。その可能性に怯える生活から抜け出せない。
私のような人間は、どうやって生きていけば良いのだろう?
孤独を抱え、親きょうだいがいる人をうらやみ、幼馴染や級友がいる人をうらやみ、ねたみにまみれ、人間関係に渇望し、ただ飢えてゆくだけなのだろうか。
結婚という選択肢も存在しない。
結婚というのは、両者の家系において、家族構成員になる手続きが必要になる。私には家族がいないので、親きょうだいに紹介する、なんて経験をパートナーに与えてやれない。
シェアハウスなども考えられない。
よっぽど生活の価値観が合わないかぎり、人間関係で悩むのは目にみえている。あと住民票をうつすときは多くの手続きが必要になるため、今は動くのが億劫だ。
数ヶ月、施設で共同生活を営んでいたが、生活の価値観が合う人がいないとキツい。施設という最低限のルールがあっても、ルールを守らない人は守らないのだ。
となると、やはり孤独にむしばまれてくたばるのが最善だろうか。
心筋梗塞を起こしてぶっ倒れて死ぬ。ガンになって緩和ケアを選択して死ぬ。このふたつしか思い浮かばない。
前の暮らしと同じ考えじゃないかと笑ってしまう。
昔から生命維持に消極的だ。
どうにかこうにか生きる意志をつないでいるが、細い糸をより合わせているだけなので、とにかくほどけやすい。
自分の命に価値を見出せない。そんな在り方を、私は肯定的にとらえている。己の命に価値がなくていいじゃないか、と。
親の介護をしながら仕事をする、というたくさんあるロールモデルも喪失し、気がついたら三十五歳がもうすぐ終わろうとしている。