己の価値を見出せない苦しみ


今日、訪看さんが訊ねた。


「自分を認められそうですか?」


自分を認める。私に存在しない概念だ。

そもそも自分自身に価値を見出していないので、認めるとは何か?から始まる。


自分自身に価値を見出せるときは、自分のなかにある条件をクリアできたときだ。

つまり自分を認められる。生きていてよいのだ、と安心感が発生する。


たとえば料理をする。洗濯をする。残さず食事をとる。シャワーを浴びる。睡眠をとる。


これらの一定基準をクリアできなければ、一気に己の価値が不確かになってしまう。

自己の脱価値化がおきる。



理由は、条件付きで愛されてきたからだ。

両親を手伝うこと。きょうだいと仲良くすること。家族と仲良くすること。家事を手伝うこと。風呂場の鍵を閉めないこと。裸を見られても拒否しないこと。

これらすべてをクリアしなければ、私は家族の誰かから怒られてきた。


この条件にはたくさんの矛盾が含まれている。

両親を手伝うことが条件だが、両親が不機嫌だったり酔っぱらっていたりすると、手伝うことそのものが私の安全をおびやかす。

きょうだいと仲良くするのも同じだ。家族のいう『仲良く』の条件は常に変化する。


風呂場の鍵を閉めないことも同じだった。

たとえ鍵を閉めずに入浴して、今現在私が入浴している、と声をかけてもドアを開けられることなんてしょっちゅうだった。

それだけならまだよかったのだが(よくないが)、裸を見られたら舌打ちされ、「入ってるなら言え」と言われる。

裸を見られた場合、私は「ごめんなさい」と謝るしかなかった。見せてしまった私が悪かったのだ。

当然だが、ノックをしなかった相手が悪いのであって、私は何も悪くない。



条件をもうけるのは常に家族で、家族全員、提示する条件が違う。



そういった生育環境だったため、私は条件付きでしか自分を認められない。自分を認められないから、相手にも条件付きでしか認められない部分がある。

自己の脱価値化がおきるのだから、相手に対しても脱価値化がおこる。

メンタルが不調だと、この脱価値化がおこりやすい。不調なとき、相手も自分も傷つけないため、接触時間そのものを減らしてしのいでいる。


相手に嫌な思いをさせるのは本意ではないし、自分で自分を傷つけたくないから接触時間を減らすが、そうすると「裏切られた」と言われたことが多かった。

対人関係はどうしても慎重になってしまう。



それなりに経験を重ねてきたし、なぜこういった現象に陥るのか、一年かけてブログにつづってきた。

ほぼ毎日書いていた。

毎月一回、当月の振り返りもしていた。何があったか。どんなことをしたか。何ができたか。来月は何をしたいか。

この月一のまとめを都合六回して、いったん終わりを迎えた。


ブログの前は創作だった。

斜に構えるキャラクターに対し、このキャラクターならどんな言葉をかけるか、どう励ますか、さまざまなシチュエーションを作り出して書いてきた。

これもやっぱり訓練だったのだと思う。


条件をクリアしないと己に価値を見出せないので、その条件をいかに下げるか、というアプローチだったのかもしれない。

己の存在価値に対するハードルが高いので、仮想のキャラクターに対し、どんな言葉をかけたら勇気づけられるか、たくさん考えてきた。



そうやって作品をいくつも作りあげ、日記をつづり、不格好ながら己の問題点を見つめてきた。

それでも不調に陥ると、相手に対しても己に対しても脱価値化がおこる。ふせぎようがない。

だからBPDなのだろう。


とはいえ、いくらか緩和してきたと思う。

学のない素人なりに、己の価値を見出す方法を模索している。まだまだ時間はかかるだろうが。

こうして文章にして自分を励ましているし、つまみ細工などで達成感を生み出す方法も新しく構築している。


たとえ自分に価値を見出せなくとも、自分の価値が不確かなままでも生きていけると、いろんな方法で生きていることを認める訓練をしている。

自分の愛し方、自分をケアする方法をたくさん持っておく。なるべく見える形で。